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第2章 人的管理の職業倫理

1.労働基準法の順守

 第1章で、経営者に職業倫理の自覚がなく、反面教師になるような悪しき事例を見てきた。そして、会社組織というのは「経営者の城」とも言えるものであり、経営者に職業倫理観がないと、「治外法権の城」になりやすいということも考えてきた。それでは、経営者はどのような職業倫理を確立すれば良いのだろうか。早速、その職業倫理の内容について記述していくことにしよう。

 まず、社員に対する、すなわち人的資源の管理の仕方における「経営者の職業倫理」について考えてみる。

 会社には、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」などの経営資源が存在する。どれも重要ではあるが、その中でも、「ヒト」すなわち人的資源がもっとも重要な経営資源であることは言うまでもない。人的資源こそが企業組織、企業経営の基盤である。

 先日、ある大企業に勤務している社員の話を聞いていると、その会社では、「サービス残業」と言われる無報酬の残業が、日常的に行われているのだそうである。ご存知のように、労働基準法によると、定時を超える残業については、時給の四分の五倍の残業手当が加算され、支給される法規定となっている。ところが「サービス残業」というものが日常的に習慣化され、この一点において、この大企業では労働基準法は守られていないのである。

 この事例でも分かるように、法律なのだから、まして大企業だから、労働基準法が守られているだろうと考えるのは早計である。大企業でさえ、労働基準法がなかなか守られていないというのが現実なのである。

 増して中小・零細企業では、大企業のサービス残業と同様の違反事例がより多く見られる。それ以外にも、年次有給休暇の取得などに関する違反事例が多いようだ。大企業、中小企業を問わず、労働基準法が守られていない企業が、普通に考える以上に多いのである。

 そこで、最初の「経営者の職業倫理」として、「労働基準法を守ること」を改めて取り上げることにした。それが、人的資源管理のおける「経営者の職業倫理」の第一歩であることを示したいのである。経営者の多くが、この点を疎かにしているのが現状ではないだろうか。

 社員の労働条件については、違反が発覚した場合は、労働基準監督署が指導し、介入することになっている。しかし、社員が自ら実行する「サービス残業」のようなケースは、なかなか顕在化せず、そのほかの違反事例でも、監督署が介入することが少ないのが実情である。

 労働基準法を守らないケースが想像以上に多いというのは、違反した場合に、その罰則が軽いということもその原因かもしれない。としても、「労働基準法を厳密に守る」ことこそが、経営者の人的資源管理における最重要な職業倫理なのである。

 この経営者の職業倫理は、働く社員のためだけにあるのではない。長期的に見れば、社員のやる気を引き出し、モチベーションを高めるのである。そして堅調な経営と企業の成長に寄与することなるのである。一般常識に過ぎないとされ、軽視されやすいかもしれないが、あえて「経営者の職業倫理」にしたいと思う。

2.会社は誰のものか

 日本のバブル経済は1991年ごろに終焉し、その後、今日に至るまで、一時の例外を除いて、低迷期が続いている。そのプロセスの中で、雇用問題が徐々に深刻さを増している。2011年に入って、大学新卒者の就職における内定率が過去に例を見ないほど低調である、という統計が発表されている。

 雇用の受け皿として、もっとも一般的な就職先は言うまでもなく「企業」である。今年の就職難において、新卒者の中では、いまだに大企業志向が強く、求人倍率の高い中小企業への就職希望者が少ないという、就職活動中の学生の志向性も指摘されている。今では、中小企業もまた、新卒者の雇用の受け皿としての社会的役割を期待されている。

 バブル経済の隆盛期において、議論になったテーマの一つに、「企業(会社)は、誰のものか」というのがある。このテーマについては、企業について議論されるときに、必ずと言って良いほど机上にのせられるものだ。「企業は株主のものである」「企業は経営者のものである」「企業は社員のものである」「企業は顧客のものである」と言った視点から、現在に至るまで、時事に即して議論されてきた。

 確かに「経営と所有の分離」がなされている株式会社の場合、その会社の所有者は、「株主」かもしれない。経営者がより多くの配当を、会社の制度上の所有者である株主に与えることは大切であり、それを否定するつもりはない。あくまでも、会社法上、制度上は、「会社の所有者は株主」なのである。

 しかし、私が考えるに、「会社に所属していて、それぞれの個人の生活がかかっている」という視点から見ると、「会社は、社員のものである」と考えたいのだ。この場合、「生活がかかっている」という生活者の視点が大切なのである。特に、最近の雇用問題が浮上し、失業率が高い現状においては、こういう考え方が大切になっているように思える。ここでは、「企業は雇用の受け皿である」という社会的役割が強調されており、2011年の現在において、大切な見解となっている。

 私は、法制度として「会社は社員の所有物である」と言っているのではない。株式会社の場合、法制度的には株主が所有者であり、経営的な指示を出せるのは経営者である。かつては頻繁にあったことだが、労働組合がストライキなどで職場を占拠するということがあった。あたかも「会社の所有者は社員である」と主張しているような行動を取っていた。しかし多くの場合、占拠した職場を強制的に退去させられて、労働組合が敗北することが多かった。ここで示されているのは、法制度的には「会社の所有者は社員などではない」ということである。

 しかし、くりかえしになるが、「生活がかかっている」という視点を重視すれば、「会社は社員のものだ」という主張もあながち的外れではないと思える。労働組合員は、職場は自分たちの生活の根拠であり、「自分たちのものだ」という意識を持っていたのである。法制度的には敗北するにしても、だからこそ、職場を占拠するという行動に走りがちなのである。

 そして経営者の職業倫理として、社員の生活がかかっている、生活の根拠としての会社というものは、「社員の生活のためにある」と考えるべきなのである。現状の法制度的には外れた論述かもしれないが、経営者の職業倫理として、私はあえてそのように主張したいのである。

 一方、経営者自身も、多くの場合「生活がかかっている」と言えるだろう。そういう視点からは、「会社は経営者のものでもある」と言うことができるかもしれない。ただ、社員の処遇を決める権限を持った者としての立場を考えると、そこにはどうしてもほかの要素を考えないわけにはいかない。こうした経営者の立場については、この文章全体で考えていきたいと思う。

3.給与についての考え方の推移

 社員に対する報酬、給与と言うものは、決定権の大部分を持っている経営者において、どのように考え、配分するべきなのだろうか。

 バブル経済の隆盛期であった1990年ごろ、テレビの経済番組の中で論じられていたことの一つに、「日本企業の経営者の報酬は低すぎる」というものがあった。アメリカの企業経営者は、日本円にして何百億円もの報酬を得ているケースも珍しくない。それに比較して日本の企業経営者は、1億円に満たない報酬と言うのはいかがなものか、という論調があった。

 当時のこの論述は、好景気の中で、経営者ばかりでなく、社員の報酬、給与も高止まりしていたのであり、バブル経済ならではのものであった。社員もまた、高給を保証されていたのであり、経営者の報酬が低いという見解も、それはそれで認められるべき性質のものだった。

 バブル経済は、1991年に崩壊し、その後の、いわゆる「失われた10年」という時代を迎える。その過程の中で、これもテレビの経済番組で言われはじめたのは、「銀行の行員の給与は高すぎる」というものであった。主に、製造業の経営者からそういう見解が主張されていた。また、銀行が、公的資金の導入の一方で、貸し渋りが表面化し、社会的役割を果たしていないという批判の中で、「行員の給与は高すぎる」と主張されはじめたように思う。そして、事実、行員の社会的ステータスが下降する中で、その給与もまた一定程度の下降をたどったのである。

「失われた10年」という、90年代から2000年代にかけて、行員の給与だけが下げられたのであれば、その問題は小さかった。しかし、給与が下がったのは行員だけではなかった。当時、盛んに導入されたのが、成果報酬という給与制度であったが、その導入が進展する過程で、実は、多くの会社の社員の給与も下げられていったのである。

 ここに、統計的な数字を出すことはしないが、給与水準が下がる、つまり社員への配分が減るという状況が進展したのである。もちろん、その背後には不景気な時代の中で、会社業績が悪化していたという事情があった。また、コスト削減、固定費特に正社員の人件費を下げたいという会社の事情があった。

 しかし、私の見解によれば、それらの事情があったとは言え、経営者はあまりにも意図的に社員の給与を下げ過ぎた。業績を好転させなくてはいけないという、経営者の至上命題を否定するものではないが、給与を下げるべきだ、下げたほうが経営上、良いという意図的な意思を感じるのである。

 もう10年以上前になるが、ある大企業の製造業で成果報酬制度が導入された。その会社のある社員は、「成果報酬なのだから、下がった社員と同じように、上がった社員がいれば、自分は成績が悪かったと納得できる。ところが私の会社では、成果報酬制度の掛け声の下で、下がった社員ばかりが目立っており、社員全体への給与総額は減っているのだ。これではわが社の成果報酬制度は、給与水準を下げるための方便に過ぎないと思うのだ」と語っていた。ここでも、経営者の給与を下げるという強い意思、意図を感じるのである。

 バブル経済崩壊以後、会社に勤務する社員の給与は、徐々にではあっても確実に下がっていった。それは、「失われた10年」だけでなく、バブル崩壊以後の20年の間続いていると見ることもできる。その一方で、企業の借入金は減り、その分を内部留保している会社も多い。その意図の背後に、給与を下げても雇用を保証してもらいたいという社会的風潮があったことは否めない。とは言え、そこに経営者の強い経営的意思を感じるのである。

 最近、2010年の給与水準が発表されているが、僅かな上昇を見せている。ただし、それは一昨年に比べて残業と一時金(ボーナス)が僅かに上昇したにすぎず、固定費としての基本給は依然として下降しているのである。近年の約20年間の推移の中に、経営者の給与を下げるべきだ、という意図的な意思があったことを、ここで確認しておきたい。

4.給与についてのあるべき考え方

 現在の経済状態を表す一つの用語は、「デフレ経済」というものである。経済現象と言うのは、例えば「デフレ経済」という現象に対して、得をする層と損をする層が必ず存在する。簡略に言えば、デフレ経済において、得をするのは現金に近い貯蓄を多く持っている層であり、損をするのは住宅ローンなどの借金をしている層である。デフレ経済というのは金銭(円)の価値が上がる現象であるため、そういうことが言える。

 もう一つの例として、2011年現在のドルやユーロと比較して円高が進行するという経済現象が起きている。この現象においても、得をする層と損をする層に分かれるのである。すなわち、海外旅行をする層は明らかに得をするし、逆に海外に居住してドルやユーロで収入を確保している層は、明らかに損をする。

 ここで「層」と言ったが、企業(会社)のレベルで考えればより明確になる。すなわち、日本国内の製造業は欧米への輸出比率が高く、円高になれば損失を受ける。逆に、商社などの輸入部門は円高で得をする。一方で円高は、日本の企業による欧米企業の買収をより有利にする。実際、現在の国内企業は、欧米企業の買収を積極的に行っている。

 円高やデフレの経済現象が一方的に悪いとされるのは、日本は輸出立国であること、一方で、国自体をはじめ自治体が、国債や地方債などの借金に頼った財政構造をしているからである。私も含め、円高やデフレを歓迎する、貯蓄を多く持った層も、日本には多いのである。株式が上がれば得をする人ばかりではないのと同じように、得する層と、損する層が発生するという見方を、ある経済現象に対してはするべきなのである。

 経済現象においては、そういう見方が必要だということを前提にして、以降の給与についての私説を進めたい。

 デフレから脱却することが日本経済において必要だとして、その場合の最良の方法は、会社などに勤める社員の給与を上げることであると、私は考える。それによって、低迷する個人消費が活発化することが期待でき、デフレ経済から脱却することができるのである。

 長期間にわたるデフレ経済の過程で、前節で述べたように、給与水準は下降線をたどる。すなわちこの間、会社の経営者は、給与水準を下げることを経営方針として意図してきた。そのことは前節で指摘したことである。だとすれば、今度は意図的に、経営者は、給与水準を上げる経営方針を採用すべきなのである。デフレ経済を脱却するためには、私にはその方法しかないように思えるのだ。私は損得から言って、必ずしもデフレ脱却を望んではいないが、経営者が給与水準を下げることと、デフレ経済の脱却とを両立させようとするのは、経営者にとって虫の良い話だと、私には思えるのである。

 2011年の現時点においては、これまでとは逆に、経営者は意図的に給与水準を上げることが必要である。その結果、社員の生活水準を上げることになり、個人消費が活発になる。結果としてデフレ経済が脱却することにつながると考えられる。

 こうした考え方は、日本の労働組合の上部団体である連合の考え方に近いように思える。ただし、私には「経営者の職業倫理」として、給与水準を上げることを意図すべきだと思うのだ。私は、「会社は社員のもの」と考える一人だが、その生活のかかった社員の給与水準を、可能な範囲で上げるということが、経営者の職業倫理だと考えている。そういう意思決定を経営者として採用することが必要なのである。そしてその重要性が高まっているのが、2011年の現在だと思えるのである。

5.評価の公平性

 経営者の給与についての考え方について、私の見解を述べてきた。そこで問題になるのが、日本企業における成果報酬制度のあり方である。

 その前提として、日本企業では成果報酬制度というものが、多くの企業で失敗しているという事実がある。給与制度と言うのは、社員のモチベーションを高める目的を持っているわけだが、日本では逆に社員のモチベーションを殺いでしまったケースが多かった。その原因はどこにあるのだろうか。

 一つは企業業績が下降線にある時代に、成果報酬制度が導入されたので、経営者の給与水準の引き下げの方便に使われたということがある。この2章の第3節でも述べたように、社員への給与配分が下がっているときに成果報酬制度が導入されたことが失敗の一つの原因となっている。

 もう一つの原因は、成果報酬というのは社員の働き振りを「評価」した結果を給与に反映させることになる。その評価の妥当性、すなわち公平性が担保されていなかったのである。経営者なり管理職なりが社員の評価をするわけだが、そこに公平性が担保されなかった。その結果、評価に対する不満が出て、社員のモチベーションを下げてしまったのである。そこには、日本人の、他者を評価することの不得手があると思うのだが、いずれにしても評価する場合の絶対条件である公平性が、制度的に担保されなかったことが失敗の大きな原因である。

 このように失敗例を多く数える成果報酬制度であるが、経営者にとって、この制度が根本的に間違っているとは、私には思えない。というのも、そもそも成果報酬制度が、成果を上げている社員と成果を上げていない社員を区分し、それに即した給与を支給しようとしているからである。年功序列報酬制度を廃して、両者を区分することによって逆に公平性を担保することにつながるという考え方が、経営者ばかりでなく社員の中にもあると思うのだ。だとすれば、成果報酬制度自体は、必ずしも間違っているわけではなく、今後も導入事例は増えるものと考えられる。

 つまり、経営者の人的資源管理における職業倫理として、この社員の評価、成果の評価について、制度としていかに公平性を担保するかが重要だということである。「社員の働き方を、いかに公平性を持って評価するか」「その公平な評価に基づいて給与を配分するか」、このことを考えることが経営者の職業倫理として必要不可欠なことだと考えられる。

 逆に社員の評価が、経営者の情実や思い付きで行われている企業は、それだけでもブラック会社と呼べるのであり、その経営者は、職業倫理に反していると考えられる。「評価の公平性」というものに正面から取り組む経営者が求められている。

6.経営者からの叱責

 私は、28歳のとき、ある業界新聞の会社に記者として入社した。それから22年間にわたって勤務し、50歳のときに退社している。時計業界の業界新聞の編集記者ばかりでなく、新聞広告の営業も手がけた。この会社での仕事が、私のこれまでの62年有余の人生において、もっとも中心となるものであり、私のキャリアの中心を形成している。

 入社して2〜3年のころだったと思う。その会社には、当時は、十数名の社員がいた。当時の時計業界は、機械式時計からクオーツ(水晶)時計への過渡期であり、クオーツ時計は、小型のボタン電池を動力としていた。水銀電池やリチウム電池が使われ、数社ある電池メーカーは、新製品開発に躍起となっていた。そして、電池メーカーへの広告出稿営業を私が担当していたのである。電池メーカーC社から比較的大きなスペースの広告をもらい、ある号で掲載したのである。そこまでは仕事は順調であった。

 そのときのケースにおいて、広告とは別に、そのページに電池の記事を書く欄があり、ボタン電池のある写真を掲載したのである。ところが、私が掲載した写真は、C社と競合関係にあるD社のものだったのである。広告がC社で、記事がD社になってしまった。その結果、C社の広告出稿の決済をしてくれた広報室長から、抗議の苦情を受けたのである。担当者である私は、営業記者としては許されない失敗をしてしまった。

 それを知った会社の経営者は、私を強く叱責した。「C社の担当者から怒られるのは当然だ。とんでもないことをしてくれたものだ。営業記者として失格だ」という主旨だったと思う。私の紛れもないミスだったのだから、私が落ち込んだのは言うまでもない。私は、自らを責め、配慮の少なさに恥じ入ったのである。

 その後私は、そのような失敗をしたことはない。経営者は、それについて退職強要などの処遇を迫ることもなかった。そしていまの私は、経営者から強く叱責されたことに感謝している。つまり、その強い叱責は、経営者として、上司として、当然の、正しい行為だったのである。私はいま、このことを思い出しながら、冷や汗の出るような思いをしている。

7.家族主義の組織についての考え方

 「叱責」という経営者の行為は、家族という比喩を使えば、「父親としての行為」であったように思える。父親としての倫理観と似ているのだ。

 一方で、経営者には「母親」の役割も期待されているように思う。すなわち、顧客からの苦情があった場合でも、必ずしも顧客対応の拙さが原因のケースばかりではない。顧客の側に責任があることも多い。そういうとき、社員を守るという行為や言辞が必要なのではないだろうか。経営者や上司として、部下の味方になり、守るということも必要な場合があると思うのだ。部下に対する一種の優しさが必要だと思うのだ。いわば、「母親」としての役割である。

 ここで、私は会社組織と言うものを「家族」にアナライズして記述した。この比喩をどのように考えれば良いのだろうか。

 日本の会社組織は、かつては「家族主義的経営」と呼ばれていた。会社全体がファミリーな関係性を保持していたと思う。例えば、部長や課長は担当部署の「父親」であり、「母親」であった。逆に言えば、「親」のような部長や課長が多くいたのであり、部下に対して厳しさと優しさを同時に持っている上司が多かった。その部や課に所属する部下たちは、「息子」や「娘」のような関係性を持って、管理されていたように思う。

 かつての家族主義的経営に対して、現在の会社組織には余裕とか、ゆとりが極端に少ない、切羽詰った関係性で満ち溢れている。経営者や上司の管理にも「親」のような厳しさや優しさはなくなり、余裕のない職場となっている。その一方で、経営者や上司によるパワハラが横行している職場も少なくない。その場合、社内の離職率は同然ながら高くなる。

 すでに、年功序列や終身雇用が限界に達している会社組織の現状において、「家族主義的経営」は過去のものであり、二度とそこに戻ることはできないかもしれない。しかし、かつての「家族主義的経営」には、いまよりも穏やかな空気が流れていたという一点において、いまの職場にはない、すぐれた面があったと思うのだ。

 それは、業績にゆとりがあったからこそできたことかもしれない。しかし、いまの会社組織は、業績にゆとりがないから、職場にゆとりがなく、職場にゆとりがないから業績も上がらないという、負のスパイラルに落ち込んでいる。経営者としては、ゆとりのある職場を作るような人的資源管理が必要不可欠になっているように思うのだ。

 そうしたゆとりのある職場にするために、経営者の職業倫理として、労働基準法の順守、適正な給与水準の配分などの人的資源管理が必要だと思うのだ。それが、この章の冒頭から指摘している人的資源管理における「経営者の職業倫理」なのである。

 ここまで読んできた読者の皆さんの中には、「こんなあまい管理をしていたら会社が成立するわけがない。業績向上は達成できないに決まっている」とお考えの方も多いと思う。 

 しかし、私説では、長期的に見れば、このような人的資源管理をすることで、一方で業績の向上が達成できるのである。このことは、多くのブラック会社が業績の低迷に悩み、時には倒産の憂き目に合っていることからも明らかなことだ。

 逆に適切な人的資源管理をすることによって、社内の健全な人間関係が実現し、社員は意欲を持って働くことができる。社員が気持ちよく働くことができることによって、定着率は増加し、長期的には優良な業績を達成することができる。経営者とはそういう社内の良い雰囲気を作るマネージャー役なのだと思うのだ。

 社員が気持ちよく働くことのできる会社か、逆にパワハラが横行するような悪い人間関係が充満する会社か、その分かれ目を作っているのが、経営者の人的資源管理だと思う。前章で述べたように、「会社は経営者の城」なのであり、社内の人間関係を良好なものにするためには、経営者の役割は大きなものがある。そして、長期的には、良い組織文化を作ることによって業績は向上し、会社の存続が可能になる。会社内において、そういう要(かなめ)としての役割を負っているのが経営者なのである。その役割の中に、「経営者の職業倫理」が問われていると考えられる。

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